親と教師の圧力による人生の失敗の一つについて ―自分が得意なことを選んで何が悪い―
すっげぇ間が空いたな…
やはり私は物事を習慣的に行うのが苦手らしい。
あと久々過ぎてどんな口調でこれを作っていたかあまり思い出せない。
(自分が前に作ったブログの文章なんて恥ずかしくて見れないでしょう?)
現在ガンダム00のE・A・レイのついてのほぼ妄想に近い考察の記事が下書きに入っている。
出来上がったら良いなぁ…
そんな前置きはさておき、今回はある意味私の愚痴だ。
題名でもう分かるだろう。
私は現在大学入学手続き中の見かけニート状態の日々を送っている。
言ってしまえば春休みなのだが、まぁ本当に外に出ない。
まだ実家暮らしで甘えている節もあるせいだが本当に自分から外に出ようと言う意思が無い。
さて、人によっては大学の入学手続きをするには遅くないか?と思う人もいるだろうし、私が現在入学手続き中であることに私が失敗したというのを察した人もいるかもしれない。
前期で受かっていたら今頃とっくに手続きは終わっているものだ。
もはや大学に行く気力さえなかった私が現役で受かったのはほぼ奇跡だろう。
そろそろ本題の失敗について書こうと思う。
このブログを見ている人間はそうそういないと思うが、今回特に私が伝えたい相手は、文系に行くか理系に行くかで迷っている学生の人たちだ。
まだ文理どちらに行くか決めていないあなたに言っておく
「誰になんと言われようと自分の得意教科がある方へ進め」
私の親と、私が通っていた学校の教師は口々にこう言っていた。
"苦手科目があるからという理由で方向を決めてはいけない"
将来に不安を感じていた私は安易にそれを鵜呑みにした。
鵜呑みにした結果、今こうして第一志望に受からず、地元のどこでも良いから受かってくれという運頼みで受かったような状態になった。
私の持論でこの記事は埋まってしまうだろうが言わせてほしい。
親や教師たちの言っていたあの台詞が通用するのは、絶対この進路に行きたいとやる気に満ち満ちた生徒であり、自分はどこに進めばいいんだろうと迷っている生徒には通用しない
私は後者の生徒だった。
それはある意味、大人たちの言う「やる気、根気が足りない」と批判される態度だったからかもしれないが、目標がはっきりしないまま苦手なことをやっても苦手なままだ。
私は高校三年の1年を、目標が無いのにできないことをし続ける無駄な1年にしてしまった。
これは本当に手痛い失敗だ。経験したての私にとっては人生の汚点にも値する。
だから、
まだ目標が決まっていない学生のあなた方は、まず自分が特に得意な教科を見つけてほしい。
ちなみに私は国語が一番得意だった。(むしろ国語しか取り柄が無かった)
そこから自分の得意な順に教科を並べてほしい。
テストでよく点数が取れる教科、高く評価されている教科…
並んだ教科の傾向で文理もしくは専門が見えてくると思う。
私の場合は順に並べると、国語、倫理、保健、家庭科、政経、英語、化学、物理、数学
誰がどう見ても文系の頭だったのだ。
なのに理系に行ってしまった。
大した目標も決まってないのに。
目標が決まっていれば、勿論文句は無い。
「絶対この道に進む」という強い気持ちがあれば、苦手を克服しようという気持ちが強く出てくるのだから。
やれば出来る学校の知識。
でも、目標が無いのにその苦手を克服する意思を持ち続けるほど人間は強くないのだ。
だからこそ、私のような失敗をしないためにも、まだ目標の定まらない中高生のあなた方は出来れば自分の得意を見つけてほしい。
出来ないことを無理にして、得意なことが中途半端になってしまうよりかは
得意なことに集中して、例えば試験などで満点を取れるようにしておいた方が私は有意義だと思っている。
私はもう中高生には戻れないが、大学からでも自分の得意なことをしようと思う。
私が今回奇跡的に受かった理由は、その大学が文系の大学だったからだ。
結果的に私は、自分の得意な教科で受かったのだ。
"下手の横好き"より、 "好きこそものの上手なれ"
好きなものは得意になれる。得意なものは好きになれる。
他人の承認ではなく、自分の承認を見る事が大切なのかもしれないと私は思った。
ガンダム00 イノベイドのこと
私の周りには、ガンダム00にとてもハマってる!っていう人はいない。
一応、好きだと言ってくれた友人もいたが、熱く語り合えるほどではなかった。
現在はSNSを見ていると勿論ガンダム00愛に燃えている人も見かけるが、
私自身が身バレを恐れて鍵付きアカウントにしているせいで繋がれてなかったりする。
そんな前置きは置いといて、だ。
私がガンダム00でよく考えていることは、イノベイドと劇場版では名前を明かされること無くエピローグに少しだけ出てきたE・A・レイのことだ。
今回はイノベイドのことについて書こうと思う。
長文で、思いついた順に書いてしまうため、内容にまとまりが無いと思われるが、仕方ないと思って大目に見てほしい。
イノベイド
ティエリアは、「イノベイターの出現を生み出すために、人造的に生み出された存在」であるとリボンズに語っていた。
ガンダムWikiでは「イノベイド」という単語はイノベイターに模造という意味の「イド」を加えて作られた単語であることが表記されている。
正直、私はこのWikiの情報を知るまでは、「イノベイド」という単語が英語で言うと「革新させる」という意味なのではと考えていた。
英単語の動詞は過去形になることで、「~だった」という意味とは別に「~させる」という意味になったりするからだ。
だから、私はこのWikiの情報を見て、なんだ…違っていたのか…と意気消沈していたりしてなかったりする。(あくまで自分の妄想に等しい考察だから、公式と違うことは予想出来ていたはずなのだが、心の何処かでそうだと信じていた)
しかし、「模造」という言葉の響きにリボンズが不満を覚えたことは想像に難くないとも思う。
言ってしまえば「イノベイターの偽物(紛い物)」という意味にもなるからだ。
そんなイノベイドなのだが、ある日ふと思い立ってからずっと頭から離れないことがある。
それは姿などが何もかもそっくりでは無いといえ、イノベイドを造ることはクローンを造っているのと同じ状態になるのではないか、ということだ。
別に私はそれで倫理観がどうのなど言うつもりではない。
ただ、ガンダム00の世界でそういう考えに至った場合、世界から見て(特に人間社会から見て)イノベイドがどういう見られ方をするのか、ということについて気になった。
しかし、本編でも劇場版でも、イノベイドに関して不快感を示すような人物は現れなかった。
イノベイド達に対する見方は、一種の端末だという捉え方か、特に初対面だと髪型が少し違うだけで顔が全く一緒であるということに対する驚きだ。
端末、という捉え方は私の覚えている限りだと、劇場版で航空母艦ソレスタルビーングの調査に携わっていた地球連邦の技術士官がそう端的に説明し、その後ヴェーダについて詳しく説明してくれた。
『「彼らはヴェーダの生体端末《イノベイド》です」』(小説版P88から引用)
同じ顔ばかりいると不思議がっていたパトリックに、その技術士官は "笑みを浮かべながら" そう言ったのである。
そういう訳でガンダム00の世界では、イノベイドは概ね受け入れられているような気がする。
それは生体端末という存在であるから、クローンという生物の生き写しではないという考えがあるからなのか、それとも
"彼らは人間の遺伝子、細胞から造られている"という事実が認知されていないからなのか。
少し判断が難しい。
私達視聴者、読者は、言わば神の視点でアニメ、漫画、小説を見ているため、そこで喋っているキャラクターが知らない情報まで知っていることがある。
だから、ガンダム00をよく見ている、知っている人にとっては、イノベイドが「元は人間の遺伝子から造られている」なんていうのは知っていたりする。
そして先ほどの技術士官はイノベイドのことを生体端末だと言い、ヴェーダが彼らから情報を収集し統括している、といった旨を話しただけで、イノベイドがどのように造り出されているか、というのは何一言も口にしていないのだ。
そういう訳で、イノベイドが世界に受け入れられているのかどうか、少し曖昧な面もあるなぁと思ったのが個人的なところだ。
ここから先は妄想癖者である私による妄想なのだが(今までも妄想に等しい考察ではあったと思うが)
高河ゆんさんのガンダム00漫画「In those days」でリボンズが主役の物語が載っている。
その中で生前のイオリアの傍にリボンズがいる描写がされてあったコマがあった。
高河ゆんさんは「自由に書かせてもらった」という前置きをしているのだが、この描写から見るに、リボンズは200年以上、世界を見てきたことになる。
そんな彼が初めて造り出された時、人の遺伝子をサンプルに細胞を一つ一つ組み合わせて造られるイノベイドという存在に、イオリアと遺伝子を提供してくれた人以外の周りの人間はどういう反応をしたのだろうか。
称賛?興味?もしくは、嫌悪感?
私は、そんなことを考えたりして、物語を膨らませていたりする。
病んでいる恋人のこと
前回の文章で、三日坊主野郎とか書いていたけど、正直毎日書くものでもないし、とさっき気付いた。
でもせっかく作ったんだし、ちゃんと使いたいな、と思っている。
私はあまりこういった文章を書くのが得意ではなく、思い浮かんだ順に書いてしまうから、結局こいつは何を言いたいんだ?っていうような文章が出来るだろうが気にしないでほしい。
胸の内に思うことを、言葉にして吐き出したいだけなのだから。
私には年下の恋人がいるのだが、なんとなく病んでるかもしれないなぁと思う。
というか、自他ともに病気だという烙印を押されてるし、押してる。
でも、私は自分で言うのもなんだが、人に対しては妙に疑う節がある。
相手が恋人でもだ。
我ながら酷い人間だと思っているが、だからといってその恋人を蔑ろにしてる訳じゃない。
恋人とは会う機会がけっこう少ないから(今のところ半年に2度会えるか会えないかの頻度)普段はメールでやりとりしているのだが、たまに恋人から来るメールが病んでるなと思う文章だったりする。
ほとんど平仮名で、こわい、こわいと繰り返していたり、かなりの長文で自分に対する他人の態度を主観的に私に話してくれる。
私の恋人は、どうやら病院で診断されたほどのコミュ障の類らしく、その点については私は信じている、が
そのコミュ障であることと、時折私に送られてくる、平仮名の、まぁまぁ支離滅裂で、たまに長文だったりするメール文が深く関係しているのか、そういう病気に関してド素人な私は判断できない。
そんな状態で付き合っているが、割と長く関係が続いているかもしれないと思う。
恋人になってから3、4年、こうやって具体的な数字を見ていると時が経つのは早いと感じたりする。
私が他人に対して少々、無関心で淡白であるという性格(?)も幸いしているのか、その恋人の病んだ部分に関して苦に感じたりは今のところはない、と思っている。
(ただ、そういう文章が来た時に、"お、今日は病んでるのか"とか感慨無く思ってしまうのは自分でもどうかと思ったりしている)
そんな感じで私は病んでいる恋人に、肯定のあるメールを送ったりしながら恋人の精神を正常に戻そうとしたりしている。
まぁまぁ成功しているが、どういう状態であれ、病んでいる人に「お前が悪い」みたいなことは決して言ってはいけないだろうと理解している。
ただ「死にたい」という言葉には例えば「俺を置いていくつもりか?」と少々強く言ったりする。
単に私に構ってほしいのか、本当に病んでしまっているのか、私には判断できないから、いつだって"最悪の状態だ"と仮定して接したほうが良いんだと私は思っている。
つまり、本当かどうか判断できないけど、本当に病んでると思いながら接している。
演技だと思って蔑ろにした挙句、本当に死なれては、やはり困るから。
だったら本当に病んでいる人間なんだと思って接していたほうが良いのだろう。
こういう話は、親しい人間であればあるほど、顔を知っている人間であればあるほど話しづらい出来事だから、こんな風に誰に聞いてほしいわけじゃないけど吐き出したくてしょうがないことを書ける場所っていうのは本当に良いと思う。
三日坊主野郎の初ブログ
新しいものに興味がある。
これもその一つだ。
そしてたまたま、自分一人の環境でも始められ、
かつ自分の端末でも出来るから始めた。
このブログ自体は新しいものじゃないだろうが、私にとっては新しいものの一つだ。
書くこと、色々あるだろうが、まぁ愚痴ばかりになりそうだ。
こんな社会じゃ仕方ないかもしれんが。
そんな徒然と始まる、私の初ブログだ。